analogue life

シンプルな暮らしとフィルム写真のこと

写真とSNSの不健全な関係

写真とSNSが一体になってしまったところから考え直していいかもしれないし、僕は写真とSNSを引き剥がす時期にきたんじゃないかと感じてる。 少なくとも写真に纏わりついてしまった「即時性」は引き剥がしていいと思う。
https://twitter.com/VP_Analogue/status/1770023306835669488

こんなことをXに呟いたら思いのほか多くの反応を頂くことになった。SNSに流れてくる写真に対して僕が感じている違和感と似た感情を実は多くの人が持っているのかもしれない。

 

深く考えずに感じたことを生焼けのままネットの海に放流したこの呟きの背景には、撮る目的とかパッションがSNSに占領されてしまった結果、世の中の写真と撮る人の価値観がおかしくなってしまったのではないか?という漠然とした思いがあった。

面白い写真を撮る人は変わらず一定数いるけれどSNSに流れてくる写真はあまり面白くない。SNSには夥しい数の自称写真家やPHOTOGRAPHERが溢れているにも関わらず。

写真家の数と反比例するように写真がとても退屈になっているのはなぜだろう?写真の楽しみや価値がSNS上の評価にすり替えられてしまっているのではないだろうか?という疑問だ。

 

過去を30年分くらい振り返ってみると、ネット以前の世界では家族や友達のようなごく狭いコミュニティの思い出を記録しておくことや旅行先の風景を撮ることが写真の役割だったし、それらを撮った写真はプリントされてコミュニティの中で共有されてきた。

作家性の強い人たちや上手な人はもちろんいたけど、過剰な演出も映えもなく総じて気軽なメディアだったし撮ってから友達と共有し引き出しの奥やアルバムに仕舞われるまで1-2ヶ月かかるのが普通だった。そして写真は定期的に振り返られた

 

2000年頃からデジタルカメラとネットの普及によりflickrや500pxのような写真発表の場が生まれ、写真流通の場は次第にTwitterInstagramのようなSNSに移っていくのだが、SNSを提供する企業が持つ大きな問題は人々の孤独や不安と射倖心に目をつけていたことだった。気付かぬうちに私たちは「何者かにならなければならない不安」と「他者からの評価の渇望」に絡め取られてしまったのだ。

かつて数ヶ月かかって消費された写真は1-2日程度まで賞味期限が短い生モノになり、SNSの住民にウケなかった写真は顧みられることもなくゴミのように消えていく。気軽なメディアだった写真は自己実現の手段に変わってしまったのだ。何でもいいから自己実現したい人が手っ取り早く飛びつくツールに変容してしまったと言ってもいいかもしれない。

SNSに写真を投稿している人は胸に手を当てて振り返ってみてほしい。全然ウケなかったけど自分は大好きだと思う写真、大切にしている写真はあるだろうか?

 

超高速に大量の写真トランザクションが生まれる現代ではSNSのタイムラインに流れてくる一枚の写真を眺める時間は1秒以下だ。

他者評価を集めるために作られた殆どポルノのようなポートレイトやポピュリズム写真*1、事件事故を誰よりも早く撮った写真であり、あるパターンに収束した写真の価値は低い。

ごくごく一部の価値ある写真家を除けば、SNSに特化して過大な評価がなされるポピュリズム写真家、インフルエンサーになりたい人、盲目的なフォロワーとそんな人々を養分にするYouTuberや情報商材が二次産業的のように裾野を形作っているように見える。

プロフィールに「写真家」と書いていた彼や彼女はある日ふと消え、また似たような写真家が似たような写真を流す状況の中で、2023年中頃からこのトランザクションにAIが生成する画像が合流し、写真の価値や真正性を根底から崩してしまった。

要するにSNSが写真を丸呑みし従属化してしまった結果、写真の価値そのものを破壊してしまったのだ。

 

そもそも写真ってもっと気軽で適当なメディアだった。

現在のSNSと写真が融合してしまった状況はとても不健全だと思うし、写真をもう一度面白いものにするためには僕らは一度SNSから距離を置いてみる必要があるのだと思う。

巧妙に射倖心をくすぐるように作られた仕組みのSNSから抜け出すのは難しいかもしれないけれど、顔も知らない誰かのいいねを100集める努力をする前に自分の写真をプリントして部屋に飾ってみるのはどうだろう。

ウケなかった写真=ゴミとして捨ててしまうのではなく、シャッターを押した瞬間の自分の感性をもっと信じてあげたらいいと思うし、「その写真いいよね」って言ってもらえるリアルなコミュニティを作ってみたり家族や友達の写真をたくさん撮って渡すことだっていいと思う。

そろそろ新しい(もしかしたら古い)写真のあり方に一歩踏み出す時期だと思うのだけど、いかがだろうか?

(このポストは「そもそも写真って何が楽しかったんだっけ?」という写真のそもそも論につながります)

*1:古くはHDR写真から始まり最近だとキャプションに「〇〇が美しすぎた」、「〇〇の本気」と書いただけの写真、アニメっぽいトーンに整えた写真やタクシーやウーバーイーツ配達人の流し撮り写真など、およそテンプレに当てはめただけのインプレ狙いの写真を僕はこう表現している

癒しメディアとしてのラジオ 

まだ薄暗さが残る午前6時、半分夢の中にいる僕はベッドサイドに置いたラジオを手探りで探す。

スイッチをひねると1秒ほどの間を置いてスピーカーから賑やかな話し声が聞こえてきたのでダイヤルを掴んで周波数を落としていく。

 

89MHz...…話し声がノイズに変わる....…88MHz...…ノイズ……84.5MHz...…何やら話し声が聞こえた気がする...…たぶん83MHz...……優しい音楽が耳を掠める...…82MHz...すがすがしい合唱にダイヤルを回す手を止め、暖かい布団に手を引っ込めて再び眠りに落ちる。

 

30分くらい眠っていただろうか。

夢の中にピーター・バラカンさんの優しい声が届き今日が土曜日だということに気付いた僕は、脇の下で丸くなって眠る猫をふわふわ撫でてキッチンへ向かい、いつもより濃いめに淹れたコーヒーをたたえたマグカップをラジオの隣に置きベッドに滑り込む。

うたた寝の再開だ。

 

 

実は今週半ばから数日休みを頂いている。

数週間前に猛烈な虚無感に襲われ仕事へのモチベーションが完全に萎んでしまったのだ。やる気ねえのかよ!ってハッパかけられたら無言で俯いちゃうくらい今は何もやる気がなくメールを開くことすら億劫になり、会議室に行くにも一大決心が必要になってしまった。

 

行動する気力がないのに焦りだけが募る。このままサボるとやばいぞという恐怖感とあと何年この生活が続くのだろうという強烈な絶望感。滑って転んで無気力と恐怖と焦りのゆりかごに落っこちた感じがバーンアウト一歩手前っぽいヤバさを含んでいたのでまずは休むことにした。公私にわたって休みがなさすぎた。

 

「あと何年この生活が続くのだろう」という絶望感は、仕事場にフィットする能力が落ちている場合は特に重量感のあるパンチだと思う。

誰しも生まれつき会社や組織にフィットしているわけではなく多少の無理をして自身をフィットさせているのだが、あまりに無理をして元の形と違う形を演じていたり過労が重なると、自分自身がひん曲がっちゃうか場合によっては折れてしまう。

 

高校や大学には明確な卒業があるので晴れ晴れとした気持ちでリセットできるけれど、職業人生はそう簡単にリセットできないし、卒業したとしてもヨボヨボの年寄りになってからなのだから仕事にうまく人生を合わせてやらなきゃならないが、僕のように歪な形をしている人間にとってはこいつが中々ハードモードだ。

 

今週の僕はあと何年この生活が…に続いて「もう後に引けない年齢よね…」というワンツーパンチを喰らい、普段ならかわせる嫌味も無視も人を見下した(と思しき態度)もノーガードで全部食らって撃沈してしまったのだ

早く会社員人生から卒業したい。

RICOH GR III: もう一度学生からやり直せるなら本を書く人かラジオを作る人になりたかったな

 

そんな後ろ向き感でいっぱいの頭をどうにか空っぽにし、ベッドでゴロゴロ寝ながら日がな一日中ラジオを聴いていると、改めてラジオはとても優しいメディアだなぁって思う。

ラジオから聞こえる話題はSNSに溢れるようなポジショントークじゃないし、日本社会的ないじめの構造の片鱗が見え隠れするTVバラエティのようないやらしさもない。パーソナリティの声はいつも優しいし、面白い音楽がかかってる。ビジネス本のような思想の押し付けも少ないのもいい。世界の墓参りしてる人とか、東京で縄文人やってる人みたいな面白い人が自分の知らない話題を振り撒いているのもいい。

filmmer.hatenablog.com

まとまりのない記事になってしまったけれど、僕のように日々の生活に疲れてしまった人とかバーンアウト一歩手前に進んでしまった人はちょっと休みをとってみてほしいしラジオを見直してみてほしい。すごく癒されるから。

ラジオに興味を持ったらぜひダイヤル式のものを選んでみてほしい。

それにしてもいい加減そろそろ社会人卒業したいな。

今週のお題「卒業したいもの」

早春とフィルム写真

カラーネガフィルムとはなんとも不思議なメディアで、その季節の陽光だとか湿度が写真に乗ってくるような気がする。

冬の写真は暗くかさついているし春の写真は霞がかって見える。夏の写真は湿度100%に近い空間を貫いてくる強い太陽光がフィルムの乳剤面に記録されているように見えるのだ。

 

確たる証拠があるわけじゃない個人の感想に「証拠はあるのか!」と食ってかかられても困るので「気がする」って表現にしているけれど、僕個人はフィルム写真は季節の光のかたちだとか湿度を捉えていると確信している。多分このブログを読んでくれているフィルム勢の方もそう感じているに違いない。

フィルムで撮ると湿度たっぷりの東南アジアで撮った写真と乾燥した欧州の冬で撮った写真ではまったく雰囲気が違うし、メディアや大資本が礼賛するご都合主義の偽物の多様性ではない本当の意味の多様性がフィルム写真にはある。

 

せっかくなので今年の早春の写真をいくつか見ていってほしい。

N0142024

日没が早いくせに所々に春の暖かさが感じられると、あぁ日本の早春だなぁって思う。

うっすら黒の混じった青から限りなく白に近い青まで緩やかに続くグラデーションの上にくっきりと伸びる枝振りと花のコントラストが美しい。

N0152024

不吉な夕暮れ。

黒い雲が群青色の空に広がろうとしている。Vision3の写す空の青はとても気持ちが良い。白い雲はカラッと写るし黒い雲はどすんと重量を感じる。

N0162024

起こしても起こしても目が覚めない子供。

うっすら差し込む朝の陽射しはまだ低く暗く、白いシーツと掛け布団に青い皺の陰影を残している。足の指をぐにぐに曲げて「お、き、な、い、ぞ」と主張された。

N0132024

季節外れの暖かな春の日の写真。

日差しが強いと木々や葉の色乗りも一層生き生きと感じられる。

N0192024

何年振りかの大雪の日。

初夏の日差しとは対照的な鉛色の空の下の枯れ枝は水分の抜け切ったカラカラな雰囲気。でも決して寒々しい雰囲気ではない。

N0202024

これも寒い曇天の日だったと思う。

がっしりした毛質の羊が寄ってきた。羊の毛は想像以上に硬くわしわしとしているので、暖かいだろうと思って手を伸ばすとちょっとびっくりする。

ある日の海辺。

この日は冷たい風だったけど春の雰囲気に溢れた日差しだった。もくもくとした雲に湿度を感じて頂けるだろうか。2月の寒さに支配された空気の隙間を縫うようにぬめっとした南風が一瞬吹くと、あの水平線の少し手前くらいまで春が来たのだろうと想像を巡らせる。

家に帰りその日に撮ったフィルムの現像を始める。

湯沸かし器のスイッチを入れ流し始めたが水道水はまだまだ冷たい。真冬のあのビリビリする冷たさを感じなくなると僕たち自家現像民は「やっと冬が終わったぞ」と実感するのだ。まだ今年の春は小さな断片のまま。冬が終わるにはもう少し時間がかかりそう。

 

写真はすべてLEICA M6 Summicron 50mm F2 Kodak Vision 3 250D

今週のお題「小さい春みつけた」