日々の暮らしの中で「アート」という単語を見聞きしない日はないのではないか?
「世の中にアートが溢れすぎじゃないか」という懸念は「アートという言葉が濫用され過ぎて胸焼けしそう」という不快感と「アートとされるもののクオリティが低過ぎやしないか?」という直感を連れてくる。
芸術が民主化したとも言える現代では、「アート」という言葉が恐ろしくインフレを起こしていて、せっせと再開発を進めるデベロッパーはしきりにアートを引っ張り込もうとするし、マンションの名称にまで「アート」が組み込まれてしまう*1。この状況を冷静に眺め直してみると、アートとはもはや雑誌の付録についてくる安っぽいおまけのような軽々しさだ。
もはやアートは「サステナブル」や「イノベーション」と同類の言語、現代の経済活動ひいてはビジネスを行う上で交わされる記号として存在する程度のもので、アートというレッテルが安っぽい通俗的なものに堕落していく様を目にするたびに、民主化とはそんなに素晴らしいことなのだろうか?という別の疑問も連れてくる*2。
芸術とは本来「人間の根源を探究する崇高な魂の活動の産物」であり、 そしてその聖域性を破壊して民主化したのがデュシャン以降の現代アートと捉えるなら、現在の状況は1990-2000年あたりから始まる経済による芸術の侵食の結果であり、ビジネス側の人間が芸術に値札をつけ始め、投資のいち分野に組み込んでしまった結果なのだ。
経済による芸術の侵食と投資への組み込みは、90年代のグローバル市場の拡大、オークションハウスの巨大化、国際的なアートフェアの拡大、巨大ギャラリーの出現と寡占の順で急拡大し、2000年代以降は中国やロシア、中東など新興富裕層のがこれに参入したことで「芸術」を包んでいた聖域は経済の力により取り払われ、「アート」として作り替えられた*3。
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「メガギャラリーという考え方は持続可能ではない」
6月3日に届いたPace Galleryが事業再編するニュースを目にしてふと思い出し、我が家の積読ジェンガの中から救出された一冊がこちら。ダニエル・グラネとカトリーヌ・ラムールの共著による一冊で、本書は現代芸術のプレイヤー、とりわけビジネス側面のプレイヤーと現代アートの舞台裏を抉り出した面白い一冊だ。
翻訳初版の発行が2015年、原著は2010年なので、出版から10年以上経過した現在は現代アートに関わるプレイヤーの構成も変わっており、帯に書かれた「中国とアメリカが80%近くを占める現代アートの競売市場…」という内訳も2025年時点では50-60%程度に変わっている。これは2014年から2022年頃まで競売市場の30%を握っていた中国のシェアは15%まだ落ちたことが原因で、不動産のクラッシュと合わせて眺めると過去の日本を見ているようだ。
プレイヤーの顔ぶれが少し変わったところで「現代アートを操縦する」人々の構成は変わっていない。
ガゴシアンや前述のペースのようなメガギャラリー、アートバーゼルに代表されるアートフェア、サザビーズやクリスティーズのようなオークションハウス、超富裕層コレクター、キュレーター、美術館が現代アートの操縦者であり、かつて貴族や教会に仕える立場であった芸術家は、今やグローバル経済に絡め取られた存在だ。
現代アートのプレイヤーの出自も興味深い。
本書によるとギャラリストはもはや芸術の専門教育を受けた人々が独占するフィールドではなく、投資銀行やマーケターをキャリアとしてきた人々も多く加わっている。後ろには銀行もついてくる。
一見して私達が「美術の祭典」と勘違いするトリエンナーレやビエンナーレは、作品を鑑賞する場であると同時に、作家・ギャラリー・キュレーター・コレクターが国際的なネットワークを築く場、エコシステムとして機能している*4。
本書は現代アートのプレイヤーをこう評する。
アート市場で大金を動かす人は、トレーダーなど金融業や、広告業や不動産業の出身者が少なくない。ようするに、ビジネスとはどういうものかを身につけたうえで、それをアートに転用した人たちだ。
現在、近代アート界では知らない者がいない、ギャラリストでありコレクターのナーマド3兄弟は元外国為替トレーダー、そしてあのジェフ・クーンズは、伝え聞くところによると商品仲買人だった。また、フランソワ・ピノーを含む20人ほどの大コレクターのアート・アドバイザーをつとめるフィリップ・セガロは、商業系グランゼコール[高等専門学校]出身で、フィナンシャル・グループのフィナコール社に勤めていた。こうした市場の立役者が、もとの仕事を足がかりに、その手法を研ぎすませ、アート市場を根底から変えてしまったというわけだ。つまり、彼らはアートを売り買いする方法を変えたのだ。
都会的なフランス人であるセガロは、拠点のひとつ、NYのオフィスで私たちを迎えてくれた。
彼は顧客のために億単位のアート作品を世界中で探しまわっている。かつて在籍したクリスティーズで業績を上げ、アート市場の改革にも貢献した彼は、こう語りはじめた。
「クリスティーズにいた1998年ごろ、私たちは現代アートの定義を見なおすことにしました。それまで戦後からとされていた、現代アートの境界線を動かし、現代アートとは1960年代以降のものだと宣言したのです」
この決定こそが市場に変革をもたらした。近代アートと現代アートの競売がそれぞれ別個に開かれるようになり、カタログも客層もふたつに分かれた。さらに彼は、ほかの商品を売るのと同じょうなマーケティング方式も取り入れた。p68
冒頭のニュースに話を戻そう。
Paceを率いるグリムチャーは、「現在のギャラリーモデルは壊れているだけでなく、もはや修復不可能だ」と述べている。またグリムチャーは「アートギャラリーのシステム全体が大きくなりすぎ、商業化しすぎ、非人間的で企業化しすぎた」とも述べている。
少数のアーティストとの関係性を深める方向へ回帰する「ビジネスモデル修正」をグリムチャーは示唆していることから、Pace Galleryの決定は、規模と価格を際限なく拡大し続けることで生まれる矛盾、かつて芸術が示してきた本質の一つである「人間による人間の探究」そのものを、巨大化した市場が歪めてしまう危険性をも露呈したのではないだろうか。
現代芸術が近代から独り立ちしたきっかけは、教科書的にはマルセル・デュシャンの泉なのだが、彼と彼に続く作家が残した現代芸術の要素、アウトプット(メディア)の多様化と価値の外部依存・文脈への依存、複製可能性はアートビジネスとの相性が実に良かった。
ビジネスマンの視点から眺めれば、「エディション」というあやふやな約束事を前提に希少性と複製可能性という都合のいい要素を取り込めるからだが*5、途方もない金額に対して耐えられる強度を現代アートが持っているかと言えば疑問が拭えない。本書によれば、現代アートに重きが置かれるのは、存命作家が多くまだ生産が可能な状況だからだ。過去の巨匠の作品だとこうはいかない。
もちろんジェームス・タレルやゲルハルト・リヒター、ゴームリーのように、知覚や身体性、社会との関係性を通して人間や世界の根源的な問いを探究する素晴らしい作家もたくさんいるが、現代アートは今まさに時代のふるいにかけられる列に並んでる最中なのだ。時代の評価が始まる前に値札が付けられて、世界中を彷徨う創作物は別の意味でアート的なのかもしれない。
*1:ブリリアアートって商品名(?)を耳にした時は驚いた。マンションや再開発物件なんてアートの足元にすら触れていないのに、いったい何を持って彼らはアートという言葉を使うのだろう?。芸術の域まで踏み込んだ建築はごく一部だ。
*2:現にアメリカはしょっちゅう「民主化」を建前に戦争をふっかけて、その国や土地をめちゃくちゃにした挙句ゴミ屑のように捨てるということをやっている。
*3:芸術への投資や投機は80年代の時点ですでに存在したが、日本を中心とした局所的なものであった。現代アートビジネスを取り巻く現状が不健全と感じるのは、グローバル化以降にこの流れがあまりに急激にスケールアップしたためだろう。
*4:数年前のあいちトリエンナーレの騒動の際に「なぜ美術の専門教育を受けていない津田大介が現代アートに食い込もうとしたか?」という疑問がずっと付き纏っていた。この謎に対する答えらしきものが本書を読んでいるとうっすら浮かんでくる。
*5:エディションにまつわる有名な騒動としてエグルストンの作品がある。1970年代の代表作を16×20インチ前後のダイ・トランスファー・プリントで限定エディションとしてプリントを販売したのちに、エグルストンは同じネガ・ポジから40×60インチという大判の顔料プリントを新たに制作し、クリスティーズでオークションに出品し計約590万ドルを売り上げた。16x20インチのプリントを購入したコレクターは「このイメージはこのエディションしか存在しない」という前提で高額購入しており、エグルストンを訴えたが敗訴した。訴えは「別エディションを売るのは希少性を損ない、市場価値を毀損する」との趣旨。もはや芸術的な価値云々ではなく、金銭の話でしかなく、また写真の複写性を全く理解していないことに対して呆れるほかない





