首都圏では素晴らしい写真展がいくつも開催されている。
神奈川県立近代美術館葉山館で開催中の「もはやない国のかつてない光 東ドイツの女性写真家たち」という展示は、東ドイツで活躍した15人の女性写真家の作品、とりわけライプツィヒ美術大学に関連する女性写真家*1に焦点を当てたという意味で画期的な写真展だ。
本展示は西側と東側の比較がテーマではないので、展示中に明確な言及がなされていないが、国家が東西に分割されたドイツにおいて、同様に分割されたふたつの写真の系譜、とりわけ普段語られることのない東側の写真の系譜を詳らかにした点でこの写真展に大きな価値がある。

ドイツの写真家といえば、まず頭に浮かぶのがベッヒャー派だろう。
ベルント・ベッヒャーがデュッセルドルフ美術アカデミーの教授に就任したのが1976年。以降西側ではベッヒャー夫妻の教育の下、コンセプチュアルアートとして写真の教育が展開され、後にベッヒャー派(≒デュッセルドルフ派)*2と呼ばれる写真家、トーマス・ルフやアンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトゥルートを輩出した。
ベッヒャーの下で育った写真家の作風はとりわけ冷徹で、世界の構造を類型化や反復、無表情・無機質、コンセプトを通して掴む方向に発展した*3
一方東側では、ライプツィヒ美術大学を中心にもう一つの写真の系譜が展開されていた。
社会主義国において写真は強力は国威発揚のツールであり、プロパガンダ製造装置の部品であることから、写真教育においても「労働を賛美する写真」や「労働英雄を撮影すること」、「理想郷として社会主義国を撮影すること」が期待されていた。
写真は国家の重要な機能のひとつされることから、西側が追いかけたコンセプチュアルな写真やアートとしての写真とは別の流れ、社会主義国リアリズムに焦点を当てた写真の系譜が発展することになる。
言うなれば、本展示は戦後東西で別々に発展し、1970年代後半には東西で異なる写真教育の系譜がはっきり並走していたデュッセルドルフ美術アカデミーとライプツィヒ美術大学の写真の系譜のお話が裏テーマなのだ。
今回の展示が面白いのは、そんな「社会主義リアリズム」方向に展開したはずの東ドイツ写真が、次第に脱線していく過程だ。
社会主義国が求めた「リアリズム」とは、勇ましく描かれた労働英雄であるとか、社会主義国家の雄々しい未来であるはずなのに、エフェリン・リヒターの写真に映る銀行の窓口に座る女性はニヤニヤしているし、衣装を着たままのバレリーナがコーヒーを飲んでいたり、労働者は疲れ果てていたりする。
ヘルガ・パリスの写真も同様に、ありのままの労働者の姿を社会主義国リアリズムとして捉えており、およそ社会主義国が求めるリアリズム写真から脱線していることが面白い。
ありのままを撮っていたら、国家の求めるリアリズムと異なってしまったのだ。そして一度脱線した写真は個人の身体や、身体の表現へ向かっていく様も興味深い。西側が、とりわけベッヒャー派が社会やシステムを写真の対象としていく一方で、東側は社会やシステムのリアリズムから始まり、より内面に向かって発展していく。
この展覧会で写真を展示する幾人かは、1970年代後半から1980年代にかけてライプツィヒ美術大学で写真を学んでいる。ちょうどベッヒャー夫妻が西側で写真を教えていた時代、グルスキーやルフが学んでいた時代と重複していたことも興味深い。
鉄のカーテンを挟んた自由陣営の西ドイツでは、ベッヒャー派が無表情・無機質、反復と類型というおよそ僕らが社会主義国に抱く印象のような冷徹な写真を展開していた一方、社会主義陣営である東ドイツ側では労働や身体、家族や都市の日常など、被写体に寄り添う体温を感じる写真を撮っていたのだ。私たちが自由陣営と社会主義陣営に持つイメージが、まるで写真のネガのように反転している。
何度も述べているように、本展示は「東ドイツの女性写真家」に焦点を当てているので、西側と東側の対比ではない。
しかしながら西側でどのように写真が発展したのか、とりわけベッヒャー夫妻と彼らに続く写真家の系譜を理解した上で写真展に臨むと、東西の写真の間に強烈なコントラストが感じられて非常に面白い。
本展示に関しては、何が何でも図録を購入されることをお勧めする。
東ドイツ写真、とりわけライプツィヒ美術大学に関連した当時の写真家の作品がまとまっている図録はそうそうないだろう。価格の割に紙質がチープな感じがしなくもないが、それも含めて社会主義国家っぽくていい。
追記:
本展示が素晴らしい写真展であることは疑いがないのだが、女性写真家にこだわる理由がどうも理解できずにいる。
ひとつ目の理由は、展示される写真に女性である理由を感じられなかったこと。
ティーナ・バーラやヘルガ・パリスが中心人物にいることは理解しているし、セルフポートレートは確かに女性であるから成立している。その一方で、他の写真は女性でなければ撮れなかったのか?と問われると、説明に困るだろう。
ふたつ目の理由はジェンダー論からこの展示を考察するのは無理があることだ。
ことジェンダー論に関しては、70年代のフェミニズムを経て80年代にアメリカで発達したものであって、共産圏に波及したのは体制が崩壊した90年代以降であるから、現代の僕たちがこの思想を持って東ドイツの女性写真家の活動を考察しようとすると、本来の意図とは異なる文脈に回収してしまうのではないか。
現代美術がその価値を外部においていること、戦争や貧困、家族のナラティブと並んでジェンダーが価値の外部委託先になっていることも承知しているが、あまりに安易に価値の外部委託をやりすぎている印象がある。
ジェンダーという現在の分析枠組みを、作品の成立理由や価値そのものへ遡及させようとすると、かえって互いの価値を毀損してしまうだろう。
「もはやない国のかつてない光 東ドイツの女性写真家たち」は8月30日まで。
www.moma.pref.kanagawa.jp