analogue life

シンプルな暮らしとフィルム写真のこと

さよなら⌘Z

春はあけぼのカラーネガ、ということでVISION 3をカメラに詰めて週末の散歩に出かけた。

ここ数年はほとんどフィルムカメラしか持ち出していなかったのだけど、今年は思うところがありデジタルも一緒に持ち出して気の向くままにシャッターを切ってきた。出番の少ないデジタルを手放す前に最後に一緒に散歩してみたかったのだ。難しいことを考えずに頭空っぽにしてこの世界を面白がってみようと思い、行き先を考えずにふらっと外出した。

カラーネガで撮った写真は後々現像するとしてまずはデジタルカメラで撮った2024年の春を数枚掲載する。

N0232024

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回はHASSELBLAD SWCにデジタルバックをつけてあちこち散歩した。

SWCの性質上ピントは目測だし、ライブビューが事実上出来ない*1のでファインダーの上下1/5程度が見切れることを織り込んで撮るのだけど、被写体を探してぶらぶら歩きながら同時に目測で距離感を測るのが妙に楽しい。

 

あらかじめ断っておくと、SWC Biogonとデジタルバックの組み合わせは現代的な超高画質ではない。

高画質のCFVと伝説のレンズであるBiogon 38mmの組み合わせに興味がある人には残念なお知らせになるが、このレンズは120フィルムを通した時に最高のパフォーマンスを出すものなのだ。33x44センサーと組み合わせると至って普通の28mm相当のレンズだ。そもそも設計が古いレンズだし焼き鳥屋の写真のように微妙なピンボケを量産する*2のでピントがびしっと合った現代の作例写真みたいな仕上がりを期待するとずっこける。

それでもCFVが捉える色の深さや材質の質感は凄いものがあるし、解像度に全振りしている現代のレンズに比べると人間的なゆるさがあっていい。

 

実はここ数ヶ月デジタルハッセルを手放そうと考えていた。10年くらい前からほとんどフィルムで写真を撮っていてデジタルを出す場面が少なかったから。

売ることを前提にデジタルハッセルと最後のおでかけのつもりでフィルムカメラの名機であるSWCにデジタルバックを付けて出歩いてみたら思いの外楽しかった。

クランクを回してチャージしシャッターを切るという行為、目測でフォーカスを合わせ露出を考え、ファインダーの中をぐるっと見回して写る範囲を勘で決めて撮るという行為が極めてアナログなのだ。出てくる画像がデジタルファイルというだけで、この不便さにはフィルム写真に通底する面白さがある。

一日この組み合わせで歩いていたら、CFVと907xのセットを手放す気がなくなってしまった。陳腐化しずらいシステムだし、もうしばらくこの組み合わせで遊んでみよう。

さよならハッセルブラッドという決心は⌘Zでなかったことにした。

 

お試しでデジタルバックを付けてみたら思いの外デジタルバックが重く1.6kgを超えていた。首がもげる。

*1:SSをバルブに合わせてシャッターを開きっぱなしにしている間に背面液晶でピントと構図を合わせ、その後SSを合わせてシャッターを切るというとんでもなく面倒臭いことをやれば可能

*2:SWCは無限遠をヘリコイドの端に合わせて運用するのだけど、どういうわけかCFVは被写界深度が指標以上に狭く通常のSWCの運用をするとフォーカスブレまくりになるなる

今月のあとがき: 2024年3月

今年も四半期おしまい。猛スピードがすぎる。

先日ちょっと長めの休暇を取って少し体を休めたけど、健康的でも文化的でもなく最低限どうにか生きてる感じ。そういえば最近ドクターストップなる言葉を聞かなくなったけど、現代は疲れた人にストップをかけず壊れたiPhoneのように使い捨てする時代なのかもしれない。セルフケアとか「自分の機嫌は自分で取るもの」なんて雇用者側の責任放棄を有り難がって使う人はまるで食肉工場を讃える屠殺前の家畜じゃないか…なんてネガティブ思考ど真ん中の3月のあとがき。

3月はたくさん写真を撮れた

今月は6ロールくらい写真を撮った。

世間的にはそんなたくさんじゃないかもしれないけど、2月は全く撮れなかったのでこれくらい撮れると満足感ある。

身体と心の疲労がまだ続いているので遠出はあまりせずに身近な場所とか身の回りを撮った写真ばかり。もう少ししたら現像して纏まりのない写真だけどいつかきちんと形にしてあげたい。

カメラ1台とフィルム2本を持ってぶらぶらするのが最近のお気に入り。2台目とか交換レンズ持って歩くのはちょっと野暮ったいので。

大和芋をずっとたべてる

なんだかわからないけど大和芋が美味しくて美味しくて美味しくて仕方ない。

ある日は鯖節をかけて炊き立ての白米に乗せまたある日は漬けまぐろに乗せ薬味を山盛りにしてむしゃむしゃ食べてる。

急に何かがおいしく感じる時は何かが身体の中で不足してる証拠だよって言われたのだが、確かにいまのぼくの身体…と心には優しさが不足している。どこかに優しさ落ちてませんか?優しくしてくれる人いませんか?

大和芋バット。そろそろプロ野球も開幕。

AirPods Proを(仕方なく泣く泣く)買った

タイトルを読めば理由は推察頂けると思う。

あぁ〜高えなぁとか見た目変わり映えしないなぁとか文句たらたらで買った理由は、片方落としたか電池が死んだかケースを無くしたかのどれかだ。

たかがイヤホンで3万円超えるのはほんと解せない。音質が最高でもないのにこの値段…と考えるとさらに解せないのだけど、この便利さはやっぱり手放せないのだ。ぐぬぬ。。

昔は目新しい機能にわくわくしたアップル製品だけど、最近は便利さを手放せずに仕方なく買ってる印象があって、これがAppleの印象を無意識に悪くしてる感がある。どうだろう?

ノイズキャンセリングOFF時に外部音とのバランスが良くなったり音質も少し良くなったけど…あんま変わり映えないなぁ。Airpods...。

温泉ラブ、熱海ラブ

お休み中にちょっと熱海まで足を伸ばした。

駅を出てすぐに足湯にドボン。腰掛けている後ろでは鳩も温泉のおこぼれに預かっていてとても平和な平日。隣にいるサラリーマン風の兄さんは仕事をサボって足湯に入ってたらしく、仕事の電話を受けてそそくさと退散していた。日本社会はこれくらいユルユルでいいと思うし、僕はユルユルで生きていきたい。同僚と話すだけなのに言葉を選ばなければいけない環境ってとても不健全だと思う。もういっそのこと仕事辞めてどこか消えちゃおうか。

足湯最高!!!!

写真は全てGR III

写真とSNSの不健全な関係

写真とSNSが一体になってしまったところから考え直していいかもしれないし、僕は写真とSNSを引き剥がす時期にきたんじゃないかと感じてる。 少なくとも写真に纏わりついてしまった「即時性」は引き剥がしていいと思う。
https://twitter.com/VP_Analogue/status/1770023306835669488

こんなことをXに呟いたら思いのほか多くの反応を頂くことになった。SNSに流れてくる写真に対して僕が感じている違和感と似た感情を実は多くの人が持っているのかもしれない。

 

深く考えずに感じたことを生焼けのままネットの海に放流したこの呟きの背景には、撮る目的とかパッションがSNSに占領されてしまった結果、世の中の写真と撮る人の価値観がおかしくなってしまったのではないか?という漠然とした思いがあった。

面白い写真を撮る人は変わらず一定数いるけれどSNSに流れてくる写真はあまり面白くない。SNSには夥しい数の自称写真家やPHOTOGRAPHERが溢れているにも関わらず。

写真家の数と反比例するように写真がとても退屈になっているのはなぜだろう?写真の楽しみや価値がSNS上の評価にすり替えられてしまっているのではないだろうか?という疑問だ。

 

過去を30年分くらい振り返ってみると、ネット以前の世界では家族や友達のようなごく狭いコミュニティの思い出を記録しておくことや旅行先の風景を撮ることが写真の役割だったし、それらを撮った写真はプリントされてコミュニティの中で共有されてきた。

作家性の強い人たちや上手な人はもちろんいたけど、過剰な演出も映えもなく総じて気軽なメディアだったし撮ってから友達と共有し引き出しの奥やアルバムに仕舞われるまで1-2ヶ月かかるのが普通だった。そして写真は定期的に振り返られた

 

2000年頃からデジタルカメラとネットの普及によりflickrや500pxのような写真発表の場が生まれ、写真流通の場は次第にTwitterInstagramのようなSNSに移っていくのだが、SNSを提供する企業が持つ大きな問題は人々の孤独や不安と射倖心に目をつけていたことだった。気付かぬうちに私たちは「何者かにならなければならない不安」と「他者からの評価の渇望」に絡め取られてしまったのだ。

かつて数ヶ月かかって消費された写真は1-2日程度まで賞味期限が短い生モノになり、SNSの住民にウケなかった写真は顧みられることもなくゴミのように消えていく。気軽なメディアだった写真は自己実現の手段に変わってしまったのだ。何でもいいから自己実現したい人が手っ取り早く飛びつくツールに変容してしまったと言ってもいいかもしれない。

SNSに写真を投稿している人は胸に手を当てて振り返ってみてほしい。全然ウケなかったけど自分は大好きだと思う写真、大切にしている写真はあるだろうか?

 

超高速に大量の写真トランザクションが生まれる現代ではSNSのタイムラインに流れてくる一枚の写真を眺める時間は1秒以下だ。

他者評価を集めるために作られた殆どポルノのようなポートレイトやポピュリズム写真*1、事件事故を誰よりも早く撮った写真であり、あるパターンに収束した写真の価値は低い。

ごくごく一部の価値ある写真家を除けば、SNSに特化して過大な評価がなされるポピュリズム写真家、インフルエンサーになりたい人、盲目的なフォロワーとそんな人々を養分にするYouTuberや情報商材が二次産業的のように裾野を形作っているように見える。

プロフィールに「写真家」と書いていた彼や彼女はある日ふと消え、また似たような写真家が似たような写真を流す状況の中で、2023年中頃からこのトランザクションにAIが生成する画像が合流し、写真の価値や真正性を根底から崩してしまった。

要するにSNSが写真を丸呑みし従属化してしまった結果、写真の価値そのものを破壊してしまったのだ。

 

そもそも写真ってもっと気軽で適当なメディアだった。

現在のSNSと写真が融合してしまった状況はとても不健全だと思うし、写真をもう一度面白いものにするためには僕らは一度SNSから距離を置いてみる必要があるのだと思う。

巧妙に射倖心をくすぐるように作られた仕組みのSNSから抜け出すのは難しいかもしれないけれど、顔も知らない誰かのいいねを100集める努力をする前に自分の写真をプリントして部屋に飾ってみるのはどうだろう。

ウケなかった写真=ゴミとして捨ててしまうのではなく、シャッターを押した瞬間の自分の感性をもっと信じてあげたらいいと思うし、「その写真いいよね」って言ってもらえるリアルなコミュニティを作ってみたり家族や友達の写真をたくさん撮って渡すことだっていいと思う。

そろそろ新しい(もしかしたら古い)写真のあり方に一歩踏み出す時期だと思うのだけど、いかがだろうか?

(このポストは「そもそも写真って何が楽しかったんだっけ?」という写真のそもそも論につながります)

*1:古くはHDR写真から始まり最近だとキャプションに「〇〇が美しすぎた」、「〇〇の本気」と書いただけの写真、アニメっぽいトーンに整えた写真やタクシーやウーバーイーツ配達人の流し撮り写真など、およそテンプレに当てはめただけのインプレ狙いの写真を僕はこう表現している