「写真には社会性が必要」という主張を最近とても窮屈に感じている。
シャッターを切れば誰でも撮れてしまう写真に付加価値をつけようとした時、社会性だとか時事問題めいたアプローチを取りたくなる気持ちはわかるし、社会性がここ10-20年くらいのアートの文脈に混み込まれていることも承知しているんだけれど、テンプレ化した「社会性」に押し込まれた写真が自ら陳腐化を加速しているように思えてならない。
社会性にも流行り廃りがあって、言うほどバリエーションがないんですよ。
写真に限らず社会性を湛えた作品といえば最近ならLGBTQ、人種差別、環境問題、女性、民族的アイデンティティのどれかの枠に入ってしまう。あぁまたこれか…みたいな感覚。20年前なら酸性雨なんてあったけど、もう誰も気にしないでしょ*1。
社会性を纏った写真が流通・評価されやすいのは左派政党っぽい価値観に染まった評価者の嗜好が過去から連綿続いた結果だから。
ここに迎合していくと10年前くらいの価値観に転げ落ちてしまうようなもので、あの時代で価値観が止まってしまったスノッブ嗜好の人々の掌の上に写真が堕してしまうのは、なんかちょっと違う気がする*2し、戦争にしろ人権にしろ貧困にしろ、ネガティブ要素だらけの写真を眺めていると気持ちの消耗が激しすぎて付いていけない。
もちろん写真には社会・時代を写すメディアという側面があるけれど、それは報道写真の人たちに任せておけばいいんじゃないですかね。
今って悲惨な世界とか社会の問題を恣意的に切り取り、強烈にアンプリファイしてSNSに流す騒動職人が山のようにいるし、似たようなことをやったところで誰も幸せな気持ちにならないと思うんだけど、どうだろう。
そんな訳で最近は社会性だとか時代性を剥ぎ取った写真を好んで手に取っている。
先日観に行ったルイジ・ギッリの写真の心地よさは醜さだとか汚さを徹底して排除していることだし、彼の写真の整い方って「画面を清潔なものにするよう努める」と言った小津安二郎の心地よさに通じるものだと思う。
そういえばコロナ禍の時、写真にマスク姿の人物が映り込むのが強烈に嫌だった。
多分あの頃に「社会性疲れ」が自分の中にも芽生えたとのかもしれない。最近は自分も写真に社会性を加えず、なんならどうにか時代性がわかるものも剥ぎ取ろうとあくせくしている。写真は醜くあってはならない。
Plaubel Makina W67 Kodak Portra 400 Silverfast HDR
