analogue life

シンプルな暮らしとフィルム写真のこと

都市開発という暴力

記憶喪失都市:東京

東京オリンピックまであと1年。東京の至る所に工事現場が展開され、ついこの前までそこにあったはずの建物が忽然と消え去っている場面に頻繁に出くわすようになった。かつてそこにあったはずのビルが更地にされ、大手デベロッパーやゼネコンのロゴが入った新しい建物の工事告知の看板を目にする度に「どうせソツのないガラスファサードの中にH&Mユニクロと無印とカフェ入れて一丁あがりビルだろ。」と悪態をついている。

それと同時に、いままでそこにあったビルや区画の記憶が既にあやふやになっていることに気が付き、併せて自分の記憶力の悪さにとても残念な気持ちになる。

私の記憶力が悪いことは事実だけど、東京という都市の代謝が異常に速く過去が急速に人々の記憶から薄れていくこの街は、記憶喪失都市と呼ぶべきだと思う。

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Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Fomapan 400

くそ、あのラーメン屋をかえせ!あの居酒屋のおやじは今いずこ…?と思うことが多くなった。

パッチワーク的都市開発

今日も東京のどこかで、いままであった空間が破壊され更新されている。

それは東京の地図上に虫食いのように穴が空き、その上をパッチワークを施すように新しい要素で塞いでいく(更新していく)ことであり、いわばマスタープランなき都市の部分的更新である。

槇文彦は「見えがくれする都市」の中で、江戸東京の都市を「都市の中心という概念が希薄で、場所場所に合った仕組みをパッチワーク的に当て嵌めてことで埋められた都市」と説明したが、絶対的な権威を中央に置くことで政治と文化を発展させてきたヨーロッパと異なり、宗教的な権威が都市の中央に位置しなかった日本ではこのようなパッチワーク的な都市の発展と更新が、時の権力により繰り返されてきたのだと思う。

N0262019

Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Kodak Tmax400  

人々のふるまいの結果として都市

「都市とは、たんなる個々人の集まりでもなければ、社会的施設──街路、建物、伝統、軌道、電話など──の集まりでもなく、なにかそれ以上のものである。また、たんなる制度や行政機関──法廷、病院、学校、警察、各種の行政サービス──の集まりでもなく、なにかそれ以上のものである。むしろ都市は、一種の心の状態、すなわち慣習や伝統の集合体であり、もともとこれらの慣習のなかに息づいており、その伝統とともに受け継がれている組織された態度や感情の集合体である」

ロバート・E・パーク:都市──都市環境における人間行動研究のための提案」(1925)

ロバート・E・パークは都市をこのように解釈した。

「そこに住むもしくは活動する人々が(意図せず)作り出し受け継がれるもの」を都市と解釈したのだが、これは大井町や吉祥寺の裏路地、新宿の思い出横丁など、そこで活動する人の振る舞いが長い時間に濾過された残渣に見ることができる。

これは権力や資本により作られたパッチワーク都市とは異質の、人々の手によって形作られた都市の中のイレギュラーな空間と言ってもよい。

東京という都市からしたらイレギュラーな存在ではあるが、より健全な成立過程を辿った街並みであると思う。

N0302019

Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Cinestill BWxx  

再開発:資本の暴力

私は東京都市圏の地方出身者なので、東京で生まれ育った人々がこの街のうつろいをどう感じているのかいまひとつ理解できなかったのだけど、ジェーン・スー氏の文章が非常に明快に東京出身者の心情を語っていたので引用させて頂く。

社会人になると、東京人の疎外感はより強くなります。

なにかやってやるぜ! という外から来た人たちがどんどん東京を変えていく。

私たち東京人の想い出の景色が、

地方出身者が地元で夢見て描いた東京イメージにどんどん上書きされていく。

遠くからたくさん人がやってきて、ビルを建てたり壊したり、

流行りをどんどん塗り替えられ、常識がどんどんかわり、

子供のころと変わらぬ景色なんて下手したらひとつもない。

東京の人間は東京ではマイノリティですから、

なにもできずにそれをボーっとみているだけです。

janesuisjapanese.blogspot.com

 

率直なこの文章を読みながら、私は現在東京で進行中の再開発は(表現は悪いかもしれないが)「資本による暴力的な都市の更新」もしくは「資本による都市文化のレイプ」だと考えている。本来その土地で活動する人々の活動の結果として形作られるべき都市を、資本の力で強引に形作るというプロセスに暴力性を感じるのである。

もちろん都市は誰かが所有するものではない。

その時代時代に都市の中で生きた人々が共有し次の世代に渡すものであるはずなのに、一握りの権力や資本が建築や都市計画の理屈を会議室の机上に広げて都市を作り変えていく。都市で暮らす人々は置いてけぼりなのである。

N0242019

Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Kodak Tmax400 

詰まるところ冒頭に申し上げた不快感は、そこで活動する人々のふるまいや時間の流れを無視して、無機質かつ土着的要素を無視したビルを都市に押し付けるデベロッパーやゼネコンに向けた不快感なのである。

渋谷はまさに「資本の力にレイプされた街」として記憶すべき好例ではないだろうか。

かの街のカルチャーはスケートだとか音楽に賛同して、渋谷に集まった人々が長い時間をかけて形作ったものであったのに、資本が暴力的な再開発をした途端に街としての魅力が無くなってしまった。

カルチャーは人々が長い時間を通して作り上げるものであって、どんなに資本がマーケティングを繰り返しメディア扇動をしても、一度破壊されたカルチャーは元どおりにはならない。

都市の記憶が上書きされるその前に

不快だ不快だと嘆いても私は資本家ではないし、建築や都市計画の偉い先生でもなければその土地を所有しているわけではないので、冷ややかな目でことの成り行きを眺める以外手も足も出ないのである。

資本主義のブレーキを持たない国、不動産建築セクターが大きな産業である国、スクラップアンドビルドを繰り返し成長する発展途上国では、歴史だとか景観だとか環境だとか倫理なんてものはマーケティングの道具でしかなく、その重要性は一切顧みられることがない。資本が正義なのだから。

そういえば「経済を回さなきゃ」という発言って、昔はよく聞いたけど、私達の世代のちょっと上あたりから下はあまり口にしないような気がする。

これから先に私ができることは、おそらくカメラを構えてシャッターを切ることくらいしかない。次第に記憶を失っていく東京を介護する、もしくは供養する。そんな気持ちでしばらくは東京の写真を撮ってみようと思う。

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Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Kodak Tmax400

追伸:Cinestill BWxxというフィルム

今回使ってみたCinestill BWxxは、Kodak社製Double-X 5222という映画フィルムを詰めなおしたもの。1959年に発売されて以来乳剤はほとんど変更されていない超々ロングセラーなフィルム。設計が古いものの、007カジノロワイヤル(2006)だとかキルビル(2003)に使われていたりと現役バリバリの映画フィルム。すごい。

パッケージにはISO250と記載されているが、ISO320で撮ってSilversaltさんに現像をお願いしたら信じられないくらい精細で諧調豊かな仕上がりとなった。日本で買うと1本1600円程度するけど、このフィルムは是非試していただきたい。

N0222019

Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Cinestill BWxx

N0232019

Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Cinestill BWxx

 

今日は平成31年3月31日。平成がもうすぐ終わる。

人間の思想信条や社会の仕組みはすぐに変われないけれど、続く数十年の中で建築だとか都市というものが消費財としての扱いではなく、人々を受け入れる美しい器としての建築や都市になるよう。建築や不動産、都市設計に関わる人々の思想や社会の仕組みが変わってくれたら良いのにと思っている。