たぶん24時手前頃だったと思う。
ベッドに寝転がってウトウトしていたら、ラジオから歌人の穂村弘さんが詠む短歌が流れてきた。
あの独特の優しい口調で読み上げられる短歌が疲れた身体と脳に心地よく、子守唄を聴いているような気分でそのまま寝落ちしてしまった。
雨だから迎えにきてって言ったのに 傘もささず裸足できやがって
盛田志保子
大丈夫ケチャップだからと言われても 不安になる程降る赤い雨
竹林ミ來
夢の入り口で受け取った短歌はこのふたつ。
穂村さんが読んだ短歌と解説がどうしても気になり翌日放送を聞き直したら、最近出版された短歌のアンソロジー「雨のうた」から穂村さんがピックアップして詠んだものと知りすぐに本屋へ向かった。

「同時代の歌人100人がうたった100首の〈雨〉の短歌アンソロジー」と副題が打たれた同書は、前書きも後書きもなく、雨をテーマにした秀逸な短歌が1ページに一首ずつ収載されている。
言うなれば現代版の万葉集。
穂村さんの言葉を借りれば、歌集というアンソロジーから始まった形態に先祖返りしたのが本書なのだろう。
あらためて短歌に触れると時にはっとさせられ、曖昧模糊な歌に頭を捻らせ、時に後味の気味悪さを味わうことができる。
短歌のフォーマットは誰でも知っているけれど、メディアで持て囃されることもなければ話題になることもない。
視覚に訴えるコンテンツじゃないのでネットでバズることもないし、日本語に限定されるからグローバル展開もされない。受け手の感性や教養に依存しているので、鋭い切り口の短歌も人によってはただの文字列以上の意味をなさない点はとても面白い。
放送中に穂村さんが上述の竹林ミ來さんの歌*1を次のように解説していた。
想像すると面白いですよね、「来やがって」って乱暴ですけど愛が感じられる。怒ってる口調なんだけど、ちゃんと傘を2本持ってきた時よりも輝きがあって面白い。
「雨だから迎えにきて」って言ったら傘2本持って来いって意味なのに、迎えにきたんだけど傘2本どころか1本も持ってない。自分も傘をさしてないしずぶ濡れでしかも裸足で来て、何のためにお前来たんだよって言いたくなるんだけど。雨だから迎えに来てとは言ったけど、傘2本持ってきてなんて言ってないから。ちゃんと約束は守ったけど。
二人ずぶ濡れで文句を言いながら帰ったというのは一生の輝きだよね。
普段あまり触れない短歌の世界に、身震いする感覚を覚えた。
歌集を閉じて、ことばの使い方について思いを巡らす。
あらためて短歌を味わってみると、高々31音にこんなにも豊かな情景や想いが詰め込まれたパッケージは素晴らしいもので、日本語と日本の文化背景に深く根ざしたかけがえのないものではないだろうか。グローバル化や英語教育よりも日本語の美しさを次の世代に継いで行かなきゃいけないと思う。
同時に、こんな豊かな「ことば」を湛えた本が本屋の片隅にひっそり置かれているのも寂しい。
日常生活では論理的で隙のないコミュニケーションが良しとされていて、ビジネスから屁理屈闘技場SNSに至るまで、揚げ足を取られずに相手を引き下ろし自分をアピールするための道具として「巧みなことば」を用いている*2。穏やかではない言い方をすれば、この世は砥石で研がれた刃物のようなことばのキャッチボールで溢れているのだ。
曖昧で受け手に解釈を委ねるコミュニケーションだけで社会を成り立たせるのは難しいけれど、僕はもっと社会全体がピンポン球のような言葉のキャッチボールだったらいいのにと思う。
よく研いだ刃物や石を投げ合うコミュニケーションは豊かではない。そして素敵な歌集がもっと世の中でチヤホヤされて欲しい、なんて思いながらもう一度表紙をめくった。
素晴らしい歌集なので、本屋で見かけたらぜひ中身を見て欲しい。
買って損はないと思う。 そして疲れて帰ってきたベッドサイドのお供にぜひTivoliのラジオをおいてみて欲しい。聞こえてくる声の優しさが違うから。
*1:https://note.com/chik325/n/nc728ea2ce509
*2:Xやnoteにいるインフルエンサーなんかは、無駄なく最大限に感情的にものごとを伝え、揚げ足を取られない「ことば」の使い方をする最たる見本だと思う。悪く言えば「ことば」を凶器やポルノとして使うことがいまのWebメディアなのではないか。






