最近中判カメラの中古価格が下がってきた気がする。フィルムの価格も馬鹿みたいな水準だし今度こそ本当にフィルム写真終わったな…という話が方々から聞こえてくるようになったので頭の片隅のもやもやを書き出してみた。
結論から言えばデジタルコンテンツが焼き尽くしたアナログの未来はとても暗い。
音楽や本はアナログメディアが生き残る可能性が高いものの、写真とか映像の世界はニッチなカテゴリとして細々と生きていく他ないかもしれない。
SNS離れやスマートフォン離れ(到底想像できないが)のように市場がいまの流れに飽きてしまうような奇跡的なことが起これば変わるかもしれないが、フィルム写真は細々とどうにか生き残るジャンルになるだろう。少なくとも日本ではもう終わったジャンルだ。これから発展するアジアではニューリッチの道楽として生き残るかもしれない。
- 技術の進歩は個人の幸福に還元されない
- フィルム写真とエコシステムの崩壊
- 機械学習とデジタル写真
- 中古フィルムカメラの価格下落
- AIと広告写真、写真というジャンルの消滅
- 撮れた楽しさから、撮る楽しさへ
- いま買うべきもの
技術の進歩は個人の幸福に還元されない
まずは2000年移行のデジタルコンテンツに関する雑感。
多くの人にとって一番身近な文化的な生活とは読書と音楽、写真あるいは映画の4つだと考えている。もちろん園芸や料理、陶芸、木工などなど挙げればキリがないけど、日常的に消費するコンテンツはこの4つがほとんどだ。
この20年を振り返ってみると音楽がそのビジネスを本格的にインターネットに乗せたのが2005年のiTunes Music Storeの立ち上げで、2002年に日本国内ではデジタルカメラの出荷台数がフィルムカメラを上回り同時期に海の向こうのアメリカではGetty Imagesが上場している。音楽と写真に少し遅れてKindleが書籍の売り上げを上回ったのが2010年、DVD/BDの出荷量は2014-2018年の間で半分になりデジタル配信へ移行が続いている。
俯瞰してみるとこれらのコンテンツが現物からデジタルベース、インターネットベースに移行して10-20年が経過していることになる。
僕を含め多くの人がItunes Music Storeが上陸した時は興奮したし、紙の質感に似て目が疲れないKindleはとても便利だと思った。デジタルカメラで撮る画像は等倍拡大してもシャープだし、高画素化が更新されるたびに僕らは猿のように等倍に伸ばしてはすげえすげえ言っていたわけだ。
一方で技術の進歩はコンテンツのクオリティとして消費者に還元されたかといえば、僕たちが技術の発展から受けた恩恵はそんなに多くない。
たしかに便利にはなったけどクオリティは上がっているわけではないし、どちらかといえば資本への恩恵が多くを占めていると思う。もう少し具体的にいえばコンテンツのデジタル化はロジスティクスの飛躍的な効率化と組織運営の合理化で、それを推し進めた結果僕らの選択の幅は脱多様化してしまったのだ。
デジタル配信が音楽を聴くエクスペリエンスを豊かにした訳じゃないし、デジタル書籍は家の本棚の中身を充実させた訳でもない。デジタルカメラは恐ろしくシャープな画像を作ってくれるけど、ディスプレイが故障したら見れないしストレージに不具合が起きたら永遠に失われてしまうものになった。
いつの間にか現物の所有から「見聞きする権利」の所有に変わり、僕らの家から本やレコードが消え、写真のアルバムが消えてしまった。ミニマリストといえば聞こえはいいが、デジタル化に伴い僕らの持ち物は剥奪され持たざる者にされてしまった感がある。
持たざる者で済めばまだ優しい話だろう。
Googleをはじめとしたテックジャイアント企業は、家に侵入させたスマートデバイスや大衆の腕に巻きつけたウェアラブルデバイスを通じて購買データや行動様式を抽出し、マーケティングに利用したり広告を押し込んできたりする。物理的に丸裸になった人々からさらにデータを搾り取ってビジネスをしているという点でGAFAはあまりにもその立場を濫用しすぎている。
そもそも技術の発展は昔から大きな力のためにあったが、ここまで一人一人の人生を監視するような技術ではなかったことを考えると、人類は自分たちの倫理観で扱える以上の技術を手にしたなと思う。
素晴らしい紙に印刷された美しい本をめくる経験、胸を躍らせながらレコードに針を落とす経験、曖昧な色が溢れ出す素晴らしいプリントの写真。デジタルコンテンツと肩を並べるように旧来の感覚的なものが残ることこそ多様な世界だったはずなのに、これらの「数値化されない楽しみ」はことごとく否定され、資本の利益のために排除されてしまった。僕ら消費者はスペックばかり眺めて猿のように比較に明け暮れ、この脱多様化の片棒を担いでいたと言って良い。
レコードは力強く復権しているし素晴らしい本は高値で取引されているのであまり心配していないが、フィルム写真に関してはもう無理だろう。少なくとも日本では。
フィルム写真とエコシステムの崩壊
フィルムを製造・流通し、撮影したフィルムを業者が現像したりプリントするというエコシステムはもう崩壊するよりない。写真がディスプレイで眺めるものになってしまった現代では36枚の写真をプリントすることにもはや意味がない。
悪戯にフィルムに値上げをやりすぎたせいで、フィルムが売れなくなり現像の需要もスキャンの需要もなくなる悪循環。ビジネス継続の上で最悪の悪手。これはもうKodakが悪い。というか全ての引き金をKodakが引いてしまった感がある。
そんなことを言うと「いやいや、需要がないなら単価は高くなるんだよ」だとか「作ってくれるだけありがたいと思いなさい」という反論が必ず出てくるが、長巻とローダーを組みあわせたスターターパックを作ったり世界中の流通網をスクラップして直販に切り替えたりキャニスターの材料を思いっきりケチってプラにしたりとやれることはたくさんあるはずなのに、どれもやらずに価格だけ引き上げたKodakは非難されて当然だと思う。
どちらにせよフィルムを製造して売る大きな企業と、撮影したフィルムを現像プリントしてくれる地場の企業の協業というエコシステムは早晩なくなる。
もし明るい未来があるとしたら、Kodakがこのエコシステムを大胆に刷新することだろう。直販体制を敷いてフィルムを流通させ、現像後のフィルムを郵送で受け付けるセントラルラボで現像・プリント・スキャンを行うサービスをやったら面白いかもしれない。
Kodakの腰の重さからしてそんな大胆なことはやらなそうなので、実際はこのまま既存のエコシステムが緩やかな死を迎えることになるだろう。フィルム写真を愛好する私たちはカラーもモノクロも自宅で現像してプリントすることになる未来が一番可能性の高いシナリオだと考えている。
量販店が屋号から「カメラ」を外した時がその号砲になるかもしれない。
写真は現像するものではなくディスプレイから眺めるもので、カメラはただの家電製品になる。フィルムはもしかしたら世界堂で売られる画材の一部になるかもしれない。
機械学習とデジタル写真
適者生存を引き合いに出すわけじゃないけど、カメラに関してはより素晴らしい性能のものよりも使いやすくてそこそこ写ってくれる機材が主流になるはずだ。強烈なサイズの制約を受けるスマートフォンのレンズもセンサーに機械学習を組み合わせて「それっぽいウケる写真」をお手軽に撮れる、コンピュテーショナルフォトグラフィというジャンルを切り拓いたAppleは頭が柔らかい。
この潮流に乗り遅れた専業デジカメメーカーもエントリーモデルを中心にコンピュテーショナルフォトを始めなければ生き残れない。レイトマジョリティに高機能の製品を売っていくやり方だ。
古参の写真家があれやこれや重箱の隅をつついてコンピュテーショナルフォトに難癖つけたところで機械学習の精度は年々改良されるし、ほとんどの消費者にとってはそれで良いのだ。ケチだけつけて高額製品を買ってくれない古参の人々なんてもう客ではないのだ。
SNSウケしそうな嘘っぽい色合いとコントラストの写真をさらっと作ってくれてポケットに入るなら最高じゃないか。
機械学習は個人の技量や判断を奪っていく「脱多様化」を進める技術でもあるので、誰が撮っても似たようなSNS向けの濃い味付けの写真が大量生産されることになる。とはいえエントリーモデルではコンピュテーショナルフォトは持て囃されるだろう。
中古フィルムカメラの価格下落
フィルムの暴騰はエコシステムを破壊すると書いた。おそらく日本ではフィルムがますます使われなくなることが明白だが、中古カメラの価格下落はあまりないと思う。
と言うのもバンコクはじめ東南アジアではECN-2現像をやってくれる街の現像屋があり、VISION3を安く詰め直して600円程度で現像してくれるエコシステムができているようなのだ。日本では「また物事を知らない馬鹿な若者がシネフィルムを現像に出してカメラ屋を困らせた」と年寄りがぼやいている一方で東南アジアはECN現像をやってくれるらしい。クオリティがどの程度なのなは知らないけど、このようなサービスがあること自体が健全で国の若々しさを感じるし、老人のぼやきが虚しく見えてしまう。
そんな状況があるのでまだまだ日本よりは前向きにフィルムと向き合える国が沢山ありそうだし、フィルムカメラの中古価格はあまり変わらず良い玉から順に日本から出ていく。花嫁狩りのようなことが進み、ますますまともなカメラとレンズが日本で手に入らず、高温多湿のアジアで使い潰されるという目を覆いたくなるような未来が待っているかもしれない。フィルムカメラの値段が下がったな…と思ったら軒並み並品か難あり品、なんてことになる未来が近いと思う。
AIと広告写真、写真というジャンルの消滅
AIが作る写真のクオリティに驚いている。
もちろんまだ改善が必要な部分はあるだろうけど、近い将来写真というジャンルは消滅してビジュアルアートの一部になるかもしれないしストリート写真家の職能(というものが現時点であるかすら怪しいけど)は過去のものになるだろう。
Image made with Al by Chini Bolson
— Street Photographers (@streetphotofdn) 2023年2月21日
What do you think about it? Does it scare you? Is Street Photography in danger? Al technologies raise questions about the future of photography and the documentation of reality. How can we deal with it? pic.twitter.com/97WnvsLu2M
門外漢なので偉そうなことは言えないけど、この速度でAIと機械学習が進歩していくとしたら広告写真のあり方はガラッと変わるし広告写真家はAIを弄るオペレーター兼クライアントとの打ち合わせをする人になってしまうかもしれない。そもそも既に写真が「真を写すもの」ではなくなっているので、ひたすら大衆に迎合した画像を生成する活動になるだろう。
時々フィルムで真正面から撮る反乱のような活動が現れるとしても、大衆が望むものに勝てるはずはない。
どんなに一流の料理人がいたとしても大衆がマクドナルドを求めれば、民主主義の世界ではそれが正解なのだ。
コロナ禍から2年経ってマスクにもワクチンにもようやく疑問の目が向いてきたが、大衆は気が狂ったようにワクチンとマスクをゴリ押しして相互監視をしてしまった。僕はその監視とゴリ押しに抵抗を押し通したけど、心をとても消耗することになった。あの頃マスクだワクチンだと大騒ぎした人やメディアにはきちんと謝罪をして欲しいと思う。
大衆が扇動される民主主義ってあまりにも恐ろしいものだ。
撮れた楽しさから、撮る楽しさへ
ここ4,5年SNSでもてはやされる写真、味付けの濃い過剰演出な風景写真やHDR写真はコンピュテーショナルフォトの売りのひとつで、スマホで風景を撮れば嘘のように真っ青な空と鮮やかなお花を綺麗に撮って(画像を作って)くれる。
2023年現在はSNSレイトマジョリティに層を中心に広く受け入れられているが、人々の興味は自動的に撮れる大仰な写真から写真を撮る楽しさに変わるかもしれない。
AIが自動的に感動画像を大量生産し始めた時が転換点になると考えている。写真に対する世間の信頼があやふやなものになり、よりバナキュラーでパーソナルな写真に注目が集まるかもしれない。もしそんな転換点が訪れて、同時にフィルムのコストが下がってくれたら多くの人にとってフィルム写真が選択肢に入ると思うのだけど、前述の通りこれはほぼありえないシナリオだろう。
いま買うべきもの
ここまで書いたものを見返していたらなんと5000文字を超えてしまった!
どうにか広げた風呂敷をまとめて話を回収しなければならないのだが、ことフィルム写真についてだけ述べれば、いま優先して買うべきものは引き伸ばし機と引き伸ばしレンズなどの周辺機器なんじゃないかと思う。
ここまで話を引っ張っておいて最後のオチが引き伸ばし機を買いなさい、というのは自分でもどうかと思うけど、本気でフィルム写真をやる覚悟があるのであれば引き伸ばし機を今のうちに探しておいた方がいいと思う。
元々市場に出回っている数がそう多くないというのもあるし、限られたスペースで営業している中古カメラ屋では引き伸ばし機を扱っているところはかなり限られる。周辺機器ともなればなおさらだ。需要がないもん。
家でプリントなんて…なんてたじろぐ必要はない。
バスタブに板並べて引き伸ばし機を置き、窓や風呂場のドアを暗幕で覆ってしまえば暗室の完成だ。ほんの少し光が漏れてても大丈夫。心配なら夜中にやればよい。出来るはずだ。
フィルム写真はいつまでやれるかわからない、となればプリントだっていつまでやれるかわからない。ディスプレイで見る写真と現物のホンモノの写真はまるで別物なのだ。やれるうちに焼いて焼いて焼きまくった方が良い。
アナログ写真全体の未来は暗いかもしれないが、一度やると腹を決めてしまえば目の前の道は光り輝いているはずだ。