analogue life

シンプルな暮らしとフィルム写真のこと

もう手に入らないカメラと、過ぎ去った時間と

5年ぶりに自室の大掃除をした、というか大掃除されてしまった。

ここ6-7年は制御不能に仕事と私生活が忙しく、自分の時間なんてほとんど取れない日々が続いてきた中で僕の部屋(作業場所)は大変な状態になっていたようだ。印画紙の箱やフィルムの山が積み重なり空の薬品ボトルが転がり、ゴムで巻かれた名刺、飛行機の半券だとかレシート、ハサミで切ったままのフィルムのベロ、パンフレット、雑誌、コード類が散らかり放題だったらしい。

「だったらしい」と他人事なのは、僕からしたら「とても便利な位置に全てがある」状況なので何も不自由しなかったから。自分の頭の中では全てがマッピングされていたので問題なかったはずなのだけど、いざ綺麗に片付けられると…とても気持ちが良い。

大掃除の結果どこかに失くしたと思っていた東京駅100周年記念のSUICAも出てきたし、同様に引越しの際に紛失したと思っていた過去のRAWファイルも発掘されたのは大きな収穫だった。

バックアップHDDを失くしていたと信じていた2011から2015年くらいに撮った写真のRAWファイルはなんとDVDに焼かれていた。

ずっとHDDだと思い込んでいたので発掘されたディスクホルダーを開けた時の驚きと嬉しさはエベレストよりも高く、日本海溝よりも深かった。あまりに嬉しかったので何にも言わずにその夜の食事は寿司になった。

この発見で何よりも嬉しかったことはSIGMA DP2sの素晴らしい画質の再発見があったことと、11年前の自分の写真を振り返ることができたことだ。

SIGMA DP2sで撮った2011年のベネチア

発掘されたDVDには2011年にベネチアで撮った写真のRAWファイルも含まれていた。

今はもう手に入らないカメラ、第一世代のFoveonセンサーを載せたDP2sで撮った写真だ。改めて眺めてみるとFoveonセンサーは初代が一番尖っていると思う。DPシリーズはMerrillまで買ったが世代を更新するたびにこの強烈な個性が消えてしまったと思う。

この夕方のベネチアの広場の写真はX3Fからストレート現像。

フィルタも何もかけていないでこの雰囲気。初期のFoveonセンサーは自然光の下で恐ろしく空気感のある写真を撮ってくれる。このカメラはデジタルカメラが追求してきた「色の正しさ」ではなく「記憶の中の色」を映し取っているのだ。

厳密には色なんて人それぞれなのだが、記憶の中の色とこの写真の色が頭の中でブレンドされ、自分の記憶に定着してるのかもしれない。

ベネチアから一歩離れたリド島の海岸。

色はやっぱり不安定だけど正しい色というよりは心地の良い色なのだと思う。昔から自分は海岸ぶらぶらが好きらしい。

サンタルチア駅にて。このどうにもならない色かぶりがFoveonっぽいんだけど自分はこれでいいと思う。それにしてもこの質素な欧州の駅が僕は好きだ。まだこのまま残ってるかな。

ベネチア本島の市場にて量り売りのフルーツ。

今ほどグローバル化と富の偏在が問題視されていなかった頃の価格だ。今はどうなっちゃってるんだろう。そもそも島内の市場が生き残ってるんだろうか。

これは・・・どこで撮ったんだっけ。多分リド島の端っこの方だったと思うけど。

11年前の自分との対話

なんか大袈裟な見出しだけど、11年の間に自分の写真は随分進化したんだなぁって思った。

自分自身の考えや物の見方はこの11年で大きく変わっていないはずだけど、明らかに撮っている写真の質が違う。11年前の自分は主題をきちんと捉えたり構図を考えたりしていない、伝えたいことの片鱗はわかるけど行き当たりばったりで写真を撮っている感じが拭えない。

水平垂直の取り方だったり、被写体への近づき方だったり、光と影の配分だったり。すべてが中途半端で、意図なく微妙に傾いていたり主題が曖昧だったり寄り過ぎていたり引き過ぎていたり、やもすれば主題の前に人が歩いていてもお構いなし。こんなのとか。

当時はバナキュラーな建築に興味があったので、写真もあるがままで恣意性を排除していればなんでも良いと考えていた(と思う)。いかにも作ったような写真や恣意的な現像はいまも変わらず大嫌いだけど、それにしたって色々詰めが甘かった。

いくつかの写真で傾きを直してあげてトリミングしてみたらとてもよい感じになった。11年前の自分を生徒に見立てて対話をしながらレタッチして添削してあげている気分。写真を誰かに教えたことなんてないけど。

気がついたらずいぶん長いこと写真やってきたけど、過去の自分を振り返って対話することっていい写真が撮れたり褒められたりすることと同じくらい面白いことかも知れない。

遠い過去の自分の写真って別人のそれなのだ。

もっとたくさん写真を撮った方がいい

世界は時間の経過と共により良くなる。

少なくとも子供頃はそう信じていたのだけど、実際今起きていることはグローバル化の進展と共に世界の合理化と平坦化、中産階級の排除が進んでいることなのだ。世界中の人間が同じようなファストファッションに身を包みスマホの画面を覗きながら歩いている。次の10年が経過する頃にはこの世界からより多様性が消え退屈な世界になるのは間違いない。世界中で商売をする資本にとってはフラットな世界の方が都合がいいのだ。

陳腐な言い方だけど、過ぎ去った時間は二度と帰って来ない。

非合理的なものを作るのは合理化の何倍も難しい。無理やり再現したところで、日光江戸村のような観光目的のテーマパーク化することは目に見えている。美しさや個性という理由だけで非合理なものを残せと叫んだところで、利潤を追求する今の支配層の意図には抗えない。

だからもっとたくさん写真を撮った方がいいと思う。家族の写真も街の写真も、旅先の写真も。

2011年のベネチアの写真を懐かしく振り返っていたら、あっという間におしまいになってしまった。もっといろんなところに行ったし、いろんな景色を見たはずなんだけど。

もっともっと写真を撮れたはずだという後悔は尽きない。