analogue life

シンプルな暮らしとフィルム写真のこと

文章を書くこと、写真を撮ること、ブログを続けること

人類が文字を使い始めた歴史を辿っていくと、メソポタミア人が粘土板に楔文字を記した約5000年前に辿り着くらしい。
粘土板から始まった文字の伝達は長い時間をかけて紙とペンに到達し、現代に生きる僕たちはプラスチックと金属で作られたでこぼこの板を指先でパタパタと叩いて文章を作ってはネットの海に放流しているのだから、5000年の間に人類は物凄く進歩したのだ。

文字の発明からさらに5万年ほど歴史を遡るとクロマニョン人(もしくはネアンデルタール人)は洞窟に壁画を残していたらしい。
彼らはコミュニケーションの道具としての文字を持たなかったが、内なる思いを伝えたり儀式を通じて他者に何かを伝えるために絵を用いたのだろう。気候変動に脆弱で肉体的にもひ弱な存在である僕たちの祖先は、高度なコミュニケーション能力を持つことで個を組織化して繁栄してきたのだ。

 

 

組織の中ではコミュニケーションは自らの生存戦略と強く結びついていて、子孫を残すことや競合する他者より優位に立つためになくてはならない訳だから、何かを伝えることは僕たちに組み込まれた本能なのだと思う。

ある人は絵画を通じて、歌が上手な人ならその歌声で、その他多くの凡庸な人々は言葉と文章で自らを発信してきたのだ。それは個を組織の中に組み込むための行為と言って良いかもしれない。

要するに僕らは何かを作ってないと気が済まないように作られてるんだと思う。
僕は文章書いたり写真撮ったりしてるけど(上手いかどうかは二の次で)これはもう本能に組み込まれている欲求なのでやめろと言われたってやめられない。

猛烈になにかを表現したいのだ。

 

一方で表現の場としてブログがもう一度息を吹き返す可能性を感じている。

この文章を書いている時点で世間を見渡すとほんのりSNS離れが進行してる感じがあるからだ。

SNS業界の詳しいことはアナリストの意見を尊重するとして、実際Facebook離れも加速して人員整理の見込みだしTwitterはそもそもシェアが低い上に台所が火の車だった訳で、肌感として人々がSNSから離れていってる感じはある。

理由は恐らく割と単純で、もともと双方向コミュニケーションだったSNSがいつの間にか誰かが作った「一見正論に見える感情」を回覧する場所になってしまったからだと思う。無思慮な人が尾鰭を付けた感情が出回るとそこには扇動が発生する。感情のRTはいわば社会がそれを承認したような誤解を与え雪だるま式に過激になる。

文章を書いたり写真を発表することは本来自由な行為であるはずなのに、その場所は無思慮な感情とその感情を利用した扇動の場所になってしまったのだ。そんな大袈裟な、と思うならウクライナ危機とコロナ禍の頃を思い出してほしい。

 

「白痴ゾンビの大群が津波の様に迫ってくる感じ」

言い方は酷かったかもしれないけどこれはコロナ禍の最中にTwitterを眺めていて感じた自分の率直な感想だ。いま改めて津波の波頭を眺めてみると白痴ゾンビの大群は無思慮な人々と彼らの行ったリツイートの山なのだ。

白痴ゾンビの津波の後ろには扇動家が組織した「エビデンス、リスク、ワクチンという言葉を覚えた改良型白痴ゾンビ」の第二波が迫っていた。

 

超個人的な視点から思うにSNS疲れという言葉は「扇動疲れ」と言い換えてもいいかもない。フォアグラのように無理やり他人の「お気持ち」を目耳に詰め込まれることに対する疲れだったり、不自由さ息苦しさに対する疲れなのだ。

確かに僕らは情報を集めたり注目を集めたい欲求があるけれど、それ以前に何かを創作したい動物なのだ。そして創作はテンプレに当てはめて作られるようなものではないのだ。文章も写真も、絵画も音楽も。

自由に文章を書いて写真を誰かにこっそり共有する場所として、僕ははてなブログの速度感がとてもいい感じなんだと考えている。

情報が押し付けられるわけでもないしリツイートの山に恐怖を覚えるわけでもない。少しばかり変な人がいるけど総じて自由で安全な場所なのだ。

5000年後に発掘される堅牢さなんてないだろうけど。

N0722022