そういえばこのblogは写真blogだったのに調子に乗ってラジオの話ばかり書いてしまった。それだけTivoli Audio PALが素晴らしいプロダクトだったのだ。買ってからそろそろ一ヶ月が経過するけど寝室で充電しながらラジオを聴いて、朝起きたらプラグを抜いてリビングに持っていきラジオを流し続ける生活になっている。音量も音質も申し分ないしプラスチック筐体の触り心地もダイヤルを回す感触も素晴らしいので、もうRadikoとスマートスピーカーには戻れない。
今週は元の路線に戻し、写真について考えていたことを少し書き起こしてみる。
写真の美しさについて
豊かな写真ってなんだろうと考えると、解像度だとか画素数はあまり重要ではないことに改めて気が付く。最近目にした記憶に残る写真はどれもカメラのカタログに載るような写真ではない。解像感や機能は写真の本質とは関係ないのだ。
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— wgm.eth 🌯 (@wgm_v) 2022年8月7日
ボケてりゃいいのか?ザラザラならいいのか?って言われるとそうでもなくて、そこに情緒だとか情感のある絵面がすきだ。隅から隅までぎっちりと解像して正しい色を再現する風景よりも情景なんだと思う。
自分の中でずっと引っ掛かってるアルバレズ・ブラーヴォのバルコニーに佇む女性だってカメラメーカーのカタログのように隅から隅まできっちり撮ってる訳じゃないところに曖昧な美しさが湛えられていて、どうにか言葉で表現しようとしてもするりと指の間からこぼれて消えてしまう。白昼夢というタイトルの通り儚い美しさだ。
Twitterに滝のように流れてくるメーカーの作例のような写真って、あれは結局カメラオペレーターがシャッターを切って編集したような写真でしかなく作家性は不在なのだ。家なき子ならぬ「意図なき子」は電子の大河の一滴となって猛烈な速度で消費されていくのだろう。
Kodak5222の美味しい現像方法
素晴らしいフィルムであることは間違いないのだけど、僕の粗雑な現像環境だと想像以上にザラついてしまったりコントラストが薄かったり結構なばらつきが生じる。僕は神経質な男が嫌いなので、水浴を完備したり温度に神経尖らせたりするのがとても嫌なんだけど、規定よりも現像液の温度を下げて攪拌の回数を上げることでこのばらつきを回避しつつ自分好みの絵面になってきた気がする。
最近ちょっと気になっているもの
もう写真機材は買わないと思っていたけどKODAK EKTAR H35は少し気になる存在だったりする。自分の用途に合わないので多分使うことはないんだけど、プロダクトとして美しいなぁとかフィルム写真を始めようとしている人にプレゼントしたいなぁ、なんて思っちゃう。
引き続き据え置き型のTivoliも気になってる。ベッドサイドに据え置くラジオとしてこのウォルナット外装はインテリアとしても抜群にいいし、低音の良さと外部アンテナと繋げるところも気になる。PALがあれだけいい製品だっただけに悩ましい。
またこのラジオの話題に戻ってしまった。
我ながらしつこいなと思うんだけど、このラジオはそれだけよくできたプロダクトなのだ。ラジオが好きな人もRadikoからラジオを知った人も騙されたと思って試してみてほしい。素晴らしいから。