自作を指差して「作品」呼ばわりできない
自分の写真を指差して「作品」と呼ぶと、あまりのこっぱずかしさにとてもむず痒い気分になる。もしかしたらあまりの恥ずかしさに、赤面して穴を掘って飛び込んでしまうかもしれない。そのまま首の骨でも折って土に埋もれて、10万年後に「前時代のおっちょこちょい」として発掘されて陳列されてしまうかもしれない。
Nikon D700 Nikkor 58mm F1.4G
建築にしろ写真にしろ、世の中にはどっからどう見ても駄作だろ!という創作物を世間様に「作品」として開陳し涼しい顔して自信満々に語り出してしまう人がいるけど、私はあまりその手の活動が得意ではない。
思いっきりアクセルベタ踏みでバックするような作品に真面目な解説文が付いているのは好きだけど、微妙な「作品」に真剣なポエムなんて添えられてたりしたのを見た日には、他人事であるにも関わらず思考停止に陥るのである。
云うなればバッドアート美術館に収蔵されるような作品にはいくら真面目な解説が付いていてもオッケーだし、頭おかしい次元に飛んでしまったウィスキー評論家のレビューも抵抗ないが、巨匠丹下健三のミケランジェロ頌を読んでいるとあまりの中二病っぽさに吐き気がしてくる、あの感じに近い。
そんなひねくれた視点を持っているためか、私の写真道楽は写真を撮りつつ機材を眺めてニヤニヤしていると云った自閉症のような状況であって、自分の創作物を世間に開陳して「この作品」と呼ぶことは、なにかとてつもない抵抗があるのである。むしろ黄金期のライカレンズの工作精度の方が「作品」なんじゃないかと思ってたりするくらい。
Nikon F80S/Nikkor 58mm F1.4G/Kodak Portra400
「こ、この、ささ、作品!作品なのかこれ!?、この作品はあの、あの…あのね!!」
自分の写真の横に立って写真の説明をしろと言われたら多分こうなるし、とてもじゃないけど、「作品」というワードを口にした途端恥ずかしさで憤死する。
注: 人前でのおしゃべりと仕事のプレゼンテーションは得意分野です。
写真への向き合い方、いままでとこれから
過去を振り返れば、山のように撮った玉石混交の写真の山の中から気に入ったものを拾ってflickrに上げ続けてきた。いま振り返ったら一時期写真を撮らなくなった時期を除いても10年くらいはコツコツ上げていた。
時折in exploreに選んでもらえたりすると軽くバズって嬉しいけど、特段何か活動をする訳でもなく、見たい人はどうぞくらいのスタンス。
言うなればちょっと世間に心を開いたヴィヴィアン・マイヤー状態。もちろん彼女のような技量と感性が備わっている訳ではないけれど。
ちゃんと撮った写真なら、きちんと世に送り出してみよう
ここからが本題。数週間前に突然そんな大層なことを思いついた。
過去写真を整理していると本当に色んな写真がある。室内に溢れる光を捉えようと何度も何度もフィルムを巻き上げて撮った写真、街歩きの最中に遭遇した社会問題(のような何か)を捉えようとした写真・・・酩酊して撮ったであろう何も覚えてない写真などなど色んな写真があるけれど、デジタルカメラからフィルムカメラに帰ってきてから撮られた写真は、その多くがきちんと何かを考えてシャッターを切っている。
Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Fomapan400
Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Fomapan400
一方デジタルカメラばかり使っていた頃は、意識不明で何も考えずにシャッターを切った写真だとか、きれいな景色を撮りたいという意思のみでシャッターを切った写真が多く、「何考えてこの写真撮ったんだっけ…」と考えても思い出せない写真が多かった。
Nikon D700/Nikkor 58mm F1.4G
フィルムだと枚数が撮れないので一枚一枚をよく考えてから撮る。必然的に情念のようなものが写真に乗り移っているのか、(多分なんてことない一枚が)大切な一枚になっていたりする。
そんな訳で、私の写真が人に気に入られるかどうかは別として、強い意図を持って撮った写真であるならば、きちんと形にして美しい言葉(ポエムではない)を添えて世間様に開陳すべきなのではないかと思い始めた次第である。
紙焼きを始めたら面白かった
フィルムカメラしかなかった頃は当たり前にプリントしていたのに、デジタルに完全に切り替わってからというもの、写真は「ディスプレイで眺めるもの」に変わった。
一通りデジタルカメラを使って後にフィルムに戻ってはきたものの、写真の流通がSNSやインターネットである以上ディスプレイでの鑑賞というのが前提となってしまい、ネガスキャンのことは考えるけど、プリントを意識することは殆ど無くなっていた。
Bessa R3A/Summicron-M 50mm F2/Kodak Ektachrome
写真を形に残す作業としてきちんとプリントをし始めたら、これがまたどうして面白い。「写真の手触り」と云うと怪訝な顔をされるかもしれないが、私は焼いた写真に手触りがあると思っている。
物理的な「紙の手触り」とは別に紙に焼いた写真は、トーンの重量とでも表現すれば良いのか、独特の質感を持っているように思う。久しぶりにちゃんとプリントした写真を指でなぞって「あぁ、やっぱりいいなぁ」と思った次第。自分はオカルトに向いているかもしれない。オーディオ沼に落ちなくて良かった。
紙焼きしていてもう一つ驚いたのは、Summaron 35mmで撮った写真を焼いた時のこと。
アレモコレモさん曰く、Summaron 35mmで撮った写真を紙焼きしたら暗部の表現に驚いたとのことだったが、私自身初めてこのレンズで撮った写真を焼いてみて本当に驚いている。スキャンして満足していた暗部からさらにディテールが浮かび上がってくるの。たまげたなぁ。
また、暗部の描写がすごく得意なレンズで焼いていて一番驚いたレンズ。スキャンして画像見てああ、これプリントしようと思って、プリントしていたら端っこの暗部の中に人がいることに気づいて驚いた経験がある。
Leica M6/Summaron 35mm F2.8/Fomapan400
スキャンの設定がおかしかったのかと思いもう一度スキャンしたけどやっぱりパラメータは間違っていなかった。iPhoneで撮った写真からはよくわからないが、黒いシルエットになっている部分から人がゾロゾロ出てきた。ちょっと怖い。
と云うことで、世間様に向けて展示をします
5月26日から6月1日の短い期間ではありますが、原宿のデザインフェスタギャラリーにてFilm is not deadと云う企画展に参加します。グループでの出展になるのでそんなに枚数は出せませんが、人生で初めて「作品」なるものを展示します。ポエムはありませんので、ぜひ皆様お誘い合わせの上ご来場ください。
また、この機会に今まで「じゆうなおとな」としてのらりくらりツイートしたりblogを書いたりしていましたが、その昔思いついてお蔵入りしていたStudio Plumhouseと云う屋号を掘り起こしましたので併せて宜しくお願い致します。